(個)性的に考える

日常の出来事を真面目に馬鹿な感じで書いていきたいブログです

抜ける文章について考えていたら、汚れた自分に悲しみを覚えた話

はじめに

諸君、文章だけで抜いたことはあるか?

私はある。

 

 

pixiv小説のカルチャーショック

今やスマホやパソコンでピッポッパッとすれば、健やかな青少年たちに見せるのは憚られるようなコンテンツがいくらでも出てきますね。イラストや漫画ならば無料で公開されているものも数多いし、有料の動画にしたってワンクリックですぐ買うことができる。いい時代になったものです。

かくいう私も、今では自身の収集した"叡智"のほとんどをスマートフォンにしまいこんでおります。私が死んだら誰か代わりにデータ消しといてくれ。

 

R-18的にシェアが広いのはやはり動画、漫画やイラストだと思います。ほかには、最近だと音声作品も市場を拡大しておりますね。

 

とある日、そういえば、と思い立って日課のpixiv漁りをしていた私は手を止めました。

「絵も音もいいが、文章はどうなんだろう。」

pixivというサイトにはイラストだけでなく小説も投稿できます。そして、小説にもイラストと同様、全年齢とR-18の区分分けがされているのです。

 

いざ!とR-18小説のページに乗り込んだ私は目を奪われました。

 

「なんと…みんなメチャクチャやってんな…!?」

 

そこにあったのはすごく下品な内容のものや設定が突拍子もないもの、ほとんどが擬音と喘ぎ声で構成されているもの、稚拙ながらにとんでもないリビドーを感じさせるもの、と様々。それらのいくつかを感嘆しながら見ていると、「こんなにハジけちゃっていいんだ!」と、なにやら勝手に解放されたような気分になりました。

 

考えてみると、R-18の文章といえば、やはり思い浮かぶのは官能小説。彩り深い語彙と巧みな言葉遣いによって読み手を情と欲の世界に誘い込む、一種の芸術。そんなお堅いイメージが、自分の中のどこかにはあったのだと思います。

しかし、ネットの海に放たれたこれらの文章はどうか。気取ることなく、ただまっすぐに、己のダイレクトな欲が表現されている、そんな作品がいくつもありました。もちろん、ただメチャクチャなわけではなく、読みやすい文章、興奮しやすい文章になるよう技巧を凝らしたものも多数。

 

文章ってのもいいじゃないか!

 

いくつかの作品を読み終えた私は、その日はスッキリとした気分で眠りました。

 

 

 

文章で抜いた経験

思い返せば、私が文章で抜いた経験は、決してpixiv小説が初めてではありませんでした。今までに2回、文章だけで抜いたことがあります。

その文章とは、『偽物語(下)』と『ロリータ』です。

 

 

 

まずは『偽物語(下)』について。この作品は『化物語』から始まる「物語シリーズ」の一冊で、シリーズ的には五番目に発売された書籍になります。発売日は2009年6月。もう13年も前なのかあ。

 

ただし、私がこの本を読んだのは偽物語がアニメ化する少し前のことでした。2012年くらいかな?当時の私は思春期の真っ只中。西尾維新の文体に憧れる、痛いオタク時代を過ごしていた頃のことです。

さて、原作を知っている人ならば当時の私がどこで抜いたのか薄々感づいていると思います。そう、火憐ちゃんに歯磨きをする、例のシーンです。

 

アニメの作画が気合い入りすぎだろう!?

 

詳細は省きますが、主人公の阿良々木暦が妹の火憐の歯を磨いているシーンです。いや、どうしてこうなった……かはアニメか原作を見ていただくとして、ここの原作での書き方が変に官能的なんですよね。

歯磨きの最後の方、以下引用。

 

 気が付けば。

 気が付けば――知らず知らずのうちに、僕は火憐をベッドに押し倒していた。

 左手は後頭部に添えたまま。

 身体を乗せて、火憐を押し倒した。

 僕よりもサイズのある彼女の身体は、しかし体重を少しかけるだけで――抵抗なくすんなりと、押し倒された。

 火憐を見る。

 火憐を見詰める。

 うっとりしているかのような。

 とろけているような。

 そんな火憐の表情だった。

 

なにやってんのこの兄妹?

かくいう私も読みながらヘブン状態だったわけですが。

しかし、当時の私でも、エロ本でもないし挿絵があるわけでもない、こんなシーンで抜いてしまったことが不思議でもありました。そんな青春の一幕。

 

 

 

 

 

 

続いては『ロリータ』。言わずと知れた問題作ですね。実はこの本、興味本位で読み始めた当時の私には難解で、最後まで読んでおりません。先日買い戻しましたので、そのうちちゃんと読みたいと思います!

 

(未読本の山に加わる新たな一冊……?)

とはいっても、600ページほどある本文の200ページくらいは読んでたはずで、その中でも強烈に頭に残っているシーンがあります。

それは、主人公で小児性愛者(と呼んでいいのだよな、多分)のハンバート氏が、日曜の朝に娘のロー(再婚相手の連れ子、12歳)と二人きりになっている場面でのこと。かわいらしく無邪気に振る舞うローと、親子のじゃれあいを演じながら内に秘めた情欲をくすぶらせているハンバート。いたずらっぽく、リンゴや雑誌を取ったり取り返したりしている二人は、ついに身体の接触に至る。といっても、それはローにとってはたわいない遊びの休憩に過ぎず、一方のハンバートにとってそれは千載一遇のチャンスでもあった。ここからの描写が実にお見事です。以下引用。

 

 次の瞬間、彼女はそれを取り返そうというふりをして、私におおいかぶさってきた。私は彼女のごつごつした細い手首をつかんだ。雑誌があわてふためいた鶏みたいに床に逃げ出した。彼女は身をよじって私の手から逃れると、後ずさりして、ソファの右手の隅にもたれた。それから、実にさりげなく、両脚を大胆にも私の膝の上に伸ばした。

 もうそのときには、私は興奮の極みで、狂気と紙一重だった。しかし私には、狂人の狡猾さも備わっている。ソファに腰掛けていながらも、私は一連のひそかな動きで、仮面をつけた我が情欲を彼女の無邪気な脚になんとかぴったり合わせた。幼い乙女の注意をそらしながら、もくろみの成功に必要となる微妙な調整を行うのは、そんなにたやすいことではない。

 

……この本やっぱり他人に紹介しづれえな!

はい、ここで言う「もくろみ」がどういうことかはなんとなく皆さん察していただけると思います。気持ち悪いですね。

しかし、犯罪的なシチュエーションはともかく、次の記述には気持ちの面ではうなずけるところもあります。そこがこの本の第一の魅力ですかね?

以下、上の場面の少し先の引用。

 

 まるで夏霞のように、小さなヘイズのまわりにただよう、つんと鼻をつくが健康的な熱気で、私は我を忘れた。どうぞこのまま、どうぞこのまま、行かないで……。食べ尽くしたリンゴの芯を炉格子に放り投げようとして、彼女が身体に力を入れたそのとき、若い重みと、破廉恥なまでに無邪気な脛骨や丸い尻が、拷問に耐えながらこっそりと仕事にいそしんでいる、張りつめた我が膝で位置を変えた。すると突然に、不可思議な変化が感覚を襲った。我が肉体で沸き立つ喜びを煮出すこと以外は、何事もどうでもよくなるような、そんな存在状態の平面に入ったのだ。

 

頭の中が"そのこと"だけになる瞬間ってありますよね、わかる。どうぞこのまま、行かないで…と言う気持ちも、悔しいけど、わかる。

この本を読もうとしていたのは確か6,7年前だったと思いますが、まるっと3ページに渡って描写されたハンバートの「もくろみ」と心情描写に対して、当時の私も感化されるものがあったのでしょうね。

 

 

おわりに:今、読んでみての感想

今回は「文章で抜く」ということに関して振り返ってみました。

 

ところで、本日のブログでとりあげた二冊の本、この機会に書店で購入して該当部分を読み返してみたんですよ。引用もしなきゃだし。

すると、面白くも悲しいことに気がついてしまいました。

 

まず、一つめの『偽物語(下)』の歯磨きシーンを読み返したところ……別に興奮しませんでした。

なんと、初見時には大いに興奮し、私を初めての「文章からの絶頂」に導いてくれた場面を読んでも何も感じないとは!?

 

続いて『ロリータ』のページをめくったところ……こちらは変わらずに興奮できました。それどころか、以前読んだときにはよくわからなかった表現が、読み直した今「そういうことか」と理解できるようになっていたんですね。

正直、以前は「人間か化物がかつて体験したことがないほど長い絶頂感の最後の脈動を、彼女の左の尻に思い切りぶちまけたのだった。」というところが一番の興奮ポイントだったんですが、今はむしろそこに至るまでの部分に熱を感じます。

 

これが大人になるということなのか…。

ある意味では私の感性や語彙力が育った結果だ、と言えそうです。しかし真っ先に浮かんだ感想は「汚れてしまったのか」でした。舌が肥えてしまったというのか何なのか。贅沢なことに、私はもうかつてのように、焦点の定まらない瞳で「にいひゃん……いいよ」と言う火憐ちゃんでは満足できなくなってしまったのかもしれません。

 

しかし、これを後退だとは思いたくない。進歩の結果なのだ。この悲しみを乗り越えてこそ、次への道が開くのだ!

 

それでも、ビビッドでセンセーショナルなあの頃の体験を今でも夢想してしまいます。同じような気持ちになれる日が果たして再び訪れるのだろうか?

 

ああ、悲しきかな、我が「性」よ……